昭和五十六年十一月二十四日 朝の御理解
 理解第九節天地金乃神は宗旨嫌いをせぬ。信心は心を狭う持ってならぬ。心を広う持っておれ。世界を広う考えておれ。世界はわが心にあるぞ。 教祖様の御時代に、教祖の御広前を訪ねた御信者さん幾人かの方達がしきりに他宗派の亊の悪口を言うておった。金光様は大変御機嫌が悪かったと言う話が残っております。ね、いわゆる釈迦もキリストも神の氏子ぞ、という意味を教えられたと言う亊です。街我っておるところを正して行かなきゃならん。間違っておるところは教えていかなければならんけれども、ほんなら自分の子供の中にそれぞれの生き方があって、間違った例えば道を歩いておる子供であっても、やはり他人から子供の亊をとやこう言われたら親は気持ちが悪い。そんなもんじゃないでしょうか。そういう意味で金光教の御しんじんはそれこそ世界はわが心にありとそういう、いわば大きな信心を頂かなければならんと。だからいよいよ、またそういう大きなおかげが受けられる信心に成長していかなければならん、と言う亊になります。 二、三日前でしたか、私の方の妹が椛目におります。ちらにキリスト教の洗礼を受けられた御信者が御本を売りに見えたといわゆる伝導にまわってられる。道を伝え、そいでまあ、お話を聞かせてもろうた。と言う亊ですが、実は私の方は合楽の教会にお参りをさせていただいておる金光教の信者ですから、もう本当に素晴らしいおかげの受けられる教会ですよ、というてここの話をさせてもらった。そしたら、その方がそんなに素晴らしいおかげの受けられる教会なら、どうしてあなた方は伝導ですか、いわゆる、あ-何か、ね、活動、どうして活動なさいませんかと言われた、と言うておりました。その話を皆さんに聞いて頂きましたよね。まあ、盛んにその話をして帰られる時におしめりがあり出した。子供連れで見えとったそうですから、傘を貸して差し上げた、と。話を聞いたら。ここの合楽の方らしいんです。というお話を、私が御理解の二、三日前の御理解の時ちょうっとお話したと思いますけれども、それを聞かれて、そこの合楽食堂の中村さんが、明くる日参って来てからですもん。先達てから、ここの公民館の何かがあってそこの御掃除か何かに行かなければならないか、何かというような亊があったら、その、公民館長さんところに投書が来と。その投書に自分はキリスト教の洗礼を受けておるから、そう言うところにはでられません。と言う亊であった。誰だろうと先議するけれども分らんけれども、どなたじゃろうか、椛目においでられたというほんなら、池尻さんならば顔はまあだ覚えてあるかも知れんけんで、聞いてみろ、という意味の亊を翌日言われるんです。まあ、そんな話は色々聞きますね。創価学会価なんかはもう兎に角自分の宗教がよいと思いこんでおる。あまりに結局、他宗派の亊をとやこういう。 ね、間違っとるところは間違いと正さなきゃならないけれども、そう言うふうに世間を狭ういってはならぬ。と言う亊駄と思うんですよね。キリスト教の洗礼を受けておれば、ほんなら村内の出亊にも出られん、とこういう。まあ、そういう亊があってはならぬ。同時に今申しますように天地一目に見ておる。とこう教えられたり、また世界はわが心にありと仰せられる、いうならば金光様の御信心ですから、確かにそういう内容をもっておる信心である。確かに前代未聞の宗教である。開闢以来の信心である。金光教をそういうふうに段々確信づけて私はこらして頂いたのは、私も、もっと、素晴らしい宗教はいくらもあろうけれども御縁があって金光教に御縁を頂いて金光教によって助かっておるからと言う程度でしたけども、ここで合楽理念が解かれるようになりましたら、もう、いよいよもって確かに開闢以来のいわゆる前代未聞の今までかって聞いた亊のない教えが金光教の教祖が解かれた御信心の内容にあった、という亊を段々確信してまいりました。 だから心狭うもってはなりませんけれどもいよいよ本当な亊だ。間違いの内亊だと言う亊を確信し、確認して参りませんと、ほんならばせっかくの御信心にそれだけのものを頂いておっても、それだけのものが現わせるだけの私は信心が望まれる、と言う亊になるのじゃないだろうかと思うんですね。 おかげがいただかれん時には、○○宗はこうだというようなものではなくて、いよいよ絶対のもの、間違いのないもの、それこそ教祖様のおっしゃるこの世界はわが心にあり、と言われるほどしの内容をもっておるのが金光教の信心だと一つ皆さん、わからなきゃいけないと御毛ですね。そこでいよいよ私共のその心がね、偉大に、というかね、豊かに大きくならなければならんと言うことです。 昨日、遠方から参って見えるお姉妹で妹さんの方が毎朝、そこの朝の御祈念に遠いですからね、まだここで支部というわけでもない分会と言うわけでもないけれども、まあ五、六名の方達が毎朝そこに集まって御祈念会を毎朝なさる。そして合楽の御理解をいただいてはまあ、信心修行にはげんでおると、こういうのです。どういうことであるかは、わからんけれども、そこの家のお姉さんにあたります。御姉妹の言う亊がもう一から十まで腹が立って、腹が立ってたまらん。夕べ、月次祭に参ってそのお届けをしておられました。ね。あんな亊がありますよね。誰か自分の気にいらんと言うか、その人が言うておる亊はもう、態度を見ても言うておる亊を聞いてもカチンと頭に来るようなね。私共もそんな時代がありましたけれども、段々おかげを頂いてそれが段々なくなってまいりました。それはね日頃、例えばこうした御信心、ね、確かにこういう有り難い神様を頂いておる、こういう信心を頂いておる。その信心を頂いておる私が、その位な亊であわてたり、その位な亊で驚いたりね、その位な亊で腹を立てたりするような亊であっては、そう言う、素晴らしい私は世界の名教、金光教というふうに昔から言われてきたんですけれども、これはまあ、ある意味あいでは自分よがりかもしれませんよね。けれども合楽理念に触れた、合楽理念が和からして頂くようになったら、いよいよその感を強くします。確かに世界の名教だと、本当に思えれる。それを信じれれる。そこにほんなら、その信心に打ち込んでいくと言う亊になるのじゃないでしょうか。もっとよか教えがあんならね。おかげ頂かれんと気には○○様もある、といったようなもんではなくて、もういよいよ合楽。まあ、いうならば金光教の信心を合楽理念によっていよいよ名教たらしめる内容を備えてきたね。ですからそこに御縁を頂く人達もその名教である、と言えれる信心をさせて頂くのですからね。その名教にふさわしい、人の悪口を言うとかね、まあ、世間狭い亊を言うような亊があっては、いわば名教に傷がつく。ね、皆さん祖困ところをね、いつも心にかけておかなきゃいけません。先だってから、久富繁雄さんのまあ、お宅。もみすりがございました。沢山なお米を乾燥させてそしてまあ、出荷するというのでしょうか。米屋に納めなきゃならない。ところが乾燥が少し足りなかった。それで返された、というのです。ね、それでそれをまた、縫うてある袋を全部ほどいてそれをまた、干さなきゃいけない。丁度さいわい、お天気が三、四日続いておりましたから、まあ、そうなさったわけですけれどもね。それをそう、手をとらんなりに何か、方法があるらしいんです。そういうお届けがありましたから、私が申しました。ね、もう手が入るぐらいなこっちゃなか、ね。一辺もう本当にいうならば乾燥が出来すぎる位に一ちょ乾燥して出さしてもろうてそれこそ、繁雄三ところのお野菜はそれこそ西瓜なら西瓜でも、丸繁西瓜といやあ、もう誰でももう、いくら高かってもそれを買う、と言われるくらいにおかげを受け取られる。あんたんところのいうならばお父さんの信心に傷がつく。だから簡単な亊でまた出すてんなんてんせずに手はいろうけれども、本当な亊して本当なものを出しなさい。と言うて、息子さんの国雄さんがお願いに来ましたから申しました亊でございますけれどもね。そういう生活の上にもです。ね、金光様の雄信心を頂いておる。しかも名教と言われる信心を頂いておるのですから。その名教にふさわしい、ね、人となると言う亊と同時に生活の上にもそういう所をあらわしていかなければ私は世界の名教とは言えないと、こう思うです。ね、いうならば鼻先の汚い亊を言う多り思うたりしてついそれが信心のある者もない者、かわらんような、ありかたではいけんじゃないか、と。ね、お互い、いうならば、合楽に御縁を頂いておる、ね。だからまあ、いうならばね、合楽の信心に傷がつくような亊のないような信心に御取り立てを頂いて、心を広う、世間を狭うせずに、いよいよ世界はわが心にありというほどしの信心の内容を確かめて、ね、そして間違いのないものであるという確信をもって信心の稽古をいたしませんとね。言う亊でもます亊でも、成程合楽の信者、信奉者である。成程名教と言われる信心の教えを頂いておるものは違うと。まあ、いうならばいわれるくらいなおかげは頂きたいと思います。ね、為にはいうならば世界の名教といわれる。いうならば、本当に名教であるという亊をです、ね。一つわからしてもらわなければいけんと思います。ね、ただ自分よがりに名教というておるというのではなくて私も創でしたけれども、いよいよ合楽理念をわからせてもろうて、前代未聞とか、開闢以来とかという、本当にそうした内容をもっておる信心にお互い、縁を頂いたのですからね。自分達の信心、いわゆる生活というか内容もやはり、それにふさわしい心の状態、そういう信心が地でいけれるおかげを頂きたいと思うですね。           「どうぞ。」